2005年 12月 20日
腑分け『海潮音』 前口上 |
定型詩の翻訳は可能なのか?
恣意的な規則にしばられた定型詩というジャンル(韻文で書かれた演劇も含む)は、その不自由さのなかにみずからの存在意義をみいだし、独自のフォルムを発展させてきた。定型詩とはみずからのフォルムとの葛藤の場であり、あらゆる文学形式のなかで内容と形式がもっとも密接にからまりあったジャンルだといえる。
しかし。
定型詩の翻訳となると、言葉の意味の置き換えはなされても、その形式まで翻訳するのは不可能である。例えばソネットの4/4/3/3行という配列は保持しえても、1行12音節という規則や、ましてや脚韻など翻訳しうるべくもない。
けだしここに定型詩の翻訳問題のすべてがある。
定型詩は形式こそが内容を生むという意味ではもっとも高密度なジャンルである。その形式を伝えられない翻訳は、弛緩しきった言葉の残骸となる危険性をつねにはらんでいるのだ。
明治から大正にかけての日本は、非常にすぐれた訳詩集をうみだしてきた。上田敏の『海潮音』や永井荷風の『珊瑚集』にはじまり、かずかずの名訳が日本の詩壇におおきな影響を与えてきた。私がここで見ていきたいのは、このような困難を翻訳家たちがいかにして乗り越え、また乗り越ええなかったかということである。
***************
「形式が内容を生むという意味では定型詩がもっとも高密度なジャンルである」という言い様は、このジャンルに親しみがない人には奇態にうつるかもしれない。小説や自由詩など散文で書かれた作品においても形式と内容が無関係であるはずがないし、そもそも内容と形式をきりはなして考えること自体がまちがっているのではないかと。
このような考え方は、すべてのジャンルが散文化されてしまった現代においては当然のことかもしれない。韻文における形式と散文における形式ではその意味がまったく違うということが感知されにくいのである。この問題については「Versification」というカテゴリーを設けてくわしく考えていく予定なので、今は例を一つあげるにとどめる。
***
フランスのもっとも代表的な韻文形式は、12音節からなるアレクサンドラン(alexandrin)である。古典時代(17・18世紀)においては、このアレクサンドランが「美しい」詩行であるためには、12音節であるということ以外に、次の三つの規則をみたさなければならなかった。
①一詩行(12音節)がひとつの文章を構成すること。
②12音節が、3/3/3/3音節のリズムで構成されていること。(tétramètre)
③6音節めの区切り(césure)が、文法的な区切りと一致すること。
たとえば次のような詩行は模範的なアレクサンドランである。
Je respire / à la fois // l'inceste et / l'imposture.(ラシーヌ「フェードル」)
この詩行では最初の6音節が主語と述語を構成し、次の6音節が目的語を構成しているので、「césure」が文法的な区切りと一致していることになる。
ところが。
ロマン主義前後からこれらの規則がやぶられるようになる。たとえばボードレールの有名な「香水瓶」のつぎの一行。
Ou dans u/ne maison // déserte / quelque armoire (「u/ne」は一語 )
この詩行においては、文法的にひとつのグループである「une maison déserte」が6音節めの「césure」で切り離されてしまっている。このことによって、「déserte」という形容詞が浮き立ってしまうのだが、まさしくこの形容詞はこの詩のなかで重要な意味をもつ言葉なのだ。
アンリ・メショニックは「césure」のこのような作用について、つぎのように言っている。「セジュールの強度、エネルギーを作るのは、詩法の一要素として仮想されたセジュールと、現実の詩の文法的な区切りとの緊張関係である。セジュールという規則は、その実現においてより、それを破ることによってより多くの効果をえる。セジュールを無視してもセジュールから逃れることはできない。なぜならその効果はセジュールという規則の記憶とともにあるのであり、この記憶はアレクサンドランの歴史のなかに刻み込まれている」(H. Meschonnic, Critique du rythme, p.544)
***
定型詩の形式とは歴史の遺産であると同時に、絶対的な根拠をもたない恣意的な規則でもある。この規則に寄りそったり反目したりしながら、個々の詩は実現されてゆく。この規則との関係性においてのみ、形式が内容をうみだしてゆく。こうしてうみだされた内容は、あらたに形式を浸食し、この無限の循環関係が内容と形式を区別不可能な地点まで連れ去ってゆく。定型詩とは、形式と内容の絶えざる闘争の場なのだ。
「腑分け『海潮音』」では、明治・大正期の訳詩を原文と比較することによって、翻訳家たちが原文のもつ「形式=内容」にどのように接していったのかを考えたい。そこにあらわれるのは、フランス語と日本語という歴史もシステムもまったく隔絶した二つの言語の火花の散るようなせめぎ合いであろう。
フランス現代詩を最初に紹介した上田敏の名アンソロジーに敬意を示して、この企画を「腑分け『海潮音』」と名づける。
N.B. 第一回目は、『海潮音』からヴェルレーヌの「落葉」をとりあげる予定です。
- 第一回、ヴェルレーヌ/上田敏「落葉」はこちらから -
恣意的な規則にしばられた定型詩というジャンル(韻文で書かれた演劇も含む)は、その不自由さのなかにみずからの存在意義をみいだし、独自のフォルムを発展させてきた。定型詩とはみずからのフォルムとの葛藤の場であり、あらゆる文学形式のなかで内容と形式がもっとも密接にからまりあったジャンルだといえる。
しかし。
定型詩の翻訳となると、言葉の意味の置き換えはなされても、その形式まで翻訳するのは不可能である。例えばソネットの4/4/3/3行という配列は保持しえても、1行12音節という規則や、ましてや脚韻など翻訳しうるべくもない。
けだしここに定型詩の翻訳問題のすべてがある。
定型詩は形式こそが内容を生むという意味ではもっとも高密度なジャンルである。その形式を伝えられない翻訳は、弛緩しきった言葉の残骸となる危険性をつねにはらんでいるのだ。
明治から大正にかけての日本は、非常にすぐれた訳詩集をうみだしてきた。上田敏の『海潮音』や永井荷風の『珊瑚集』にはじまり、かずかずの名訳が日本の詩壇におおきな影響を与えてきた。私がここで見ていきたいのは、このような困難を翻訳家たちがいかにして乗り越え、また乗り越ええなかったかということである。
「形式が内容を生むという意味では定型詩がもっとも高密度なジャンルである」という言い様は、このジャンルに親しみがない人には奇態にうつるかもしれない。小説や自由詩など散文で書かれた作品においても形式と内容が無関係であるはずがないし、そもそも内容と形式をきりはなして考えること自体がまちがっているのではないかと。
このような考え方は、すべてのジャンルが散文化されてしまった現代においては当然のことかもしれない。韻文における形式と散文における形式ではその意味がまったく違うということが感知されにくいのである。この問題については「Versification」というカテゴリーを設けてくわしく考えていく予定なので、今は例を一つあげるにとどめる。
フランスのもっとも代表的な韻文形式は、12音節からなるアレクサンドラン(alexandrin)である。古典時代(17・18世紀)においては、このアレクサンドランが「美しい」詩行であるためには、12音節であるということ以外に、次の三つの規則をみたさなければならなかった。
①一詩行(12音節)がひとつの文章を構成すること。
②12音節が、3/3/3/3音節のリズムで構成されていること。(tétramètre)
③6音節めの区切り(césure)が、文法的な区切りと一致すること。
たとえば次のような詩行は模範的なアレクサンドランである。
Je respire / à la fois // l'inceste et / l'imposture.(ラシーヌ「フェードル」)
この詩行では最初の6音節が主語と述語を構成し、次の6音節が目的語を構成しているので、「césure」が文法的な区切りと一致していることになる。
ところが。
ロマン主義前後からこれらの規則がやぶられるようになる。たとえばボードレールの有名な「香水瓶」のつぎの一行。
Ou dans u/ne maison // déserte / quelque armoire (「u/ne」は一語 )
この詩行においては、文法的にひとつのグループである「une maison déserte」が6音節めの「césure」で切り離されてしまっている。このことによって、「déserte」という形容詞が浮き立ってしまうのだが、まさしくこの形容詞はこの詩のなかで重要な意味をもつ言葉なのだ。
アンリ・メショニックは「césure」のこのような作用について、つぎのように言っている。「セジュールの強度、エネルギーを作るのは、詩法の一要素として仮想されたセジュールと、現実の詩の文法的な区切りとの緊張関係である。セジュールという規則は、その実現においてより、それを破ることによってより多くの効果をえる。セジュールを無視してもセジュールから逃れることはできない。なぜならその効果はセジュールという規則の記憶とともにあるのであり、この記憶はアレクサンドランの歴史のなかに刻み込まれている」(H. Meschonnic, Critique du rythme, p.544)
定型詩の形式とは歴史の遺産であると同時に、絶対的な根拠をもたない恣意的な規則でもある。この規則に寄りそったり反目したりしながら、個々の詩は実現されてゆく。この規則との関係性においてのみ、形式が内容をうみだしてゆく。こうしてうみだされた内容は、あらたに形式を浸食し、この無限の循環関係が内容と形式を区別不可能な地点まで連れ去ってゆく。定型詩とは、形式と内容の絶えざる闘争の場なのだ。
「腑分け『海潮音』」では、明治・大正期の訳詩を原文と比較することによって、翻訳家たちが原文のもつ「形式=内容」にどのように接していったのかを考えたい。そこにあらわれるのは、フランス語と日本語という歴史もシステムもまったく隔絶した二つの言語の火花の散るようなせめぎ合いであろう。
フランス現代詩を最初に紹介した上田敏の名アンソロジーに敬意を示して、この企画を「腑分け『海潮音』」と名づける。
N.B. 第一回目は、『海潮音』からヴェルレーヌの「落葉」をとりあげる予定です。
by sigokoko
| 2005-12-20 15:46
| 腑分け『海潮音』