2006年 01月 05日
腑分け『海潮音』1-3 ヴェルレーヌ/上田敏 「落葉」 |
第三回 ふたつの文化、ふたつの音楽。
N.B. この記事は、『腑分け『海潮音』1-2 ヴェルレーヌ/上田敏 「落葉」』の続きです。
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上田敏の「落葉」はヴェルレーヌの原文に対して忠実な訳とは言いがたい。それは文全体の意味を伝えるために文の構造を犠牲にする「意訳」ともほど遠いものである。
上田敏があのような翻訳をした理由は別のところに求められなければならない。
考えうる唯一の理由は、訳文のなかに特定のリズムを持ち込むことである。
そしてそのリズムとは、和歌のリズムの最小単位の一つである「5音節」なのだ。
**********
上田敏は訳詩のなかに五音節のリズムを保つためには語義の多少の改変も厭わなかった。
たとえば「Les sanglots longs」(長いすすり泣き)を「ためいき」とニュアンスを変えて訳してしまったのは、意味よりもリズムを優先した結果である。直訳ではどうしても5音節に収まりきらない。
「l'automne」(秋)を「秋の日」(5音節)としたのも同断である。
「D'une langueur Monotone」(単調な物憂さ)にいたっては「ひたぶるに」(5音節)という、訳語からは原文がとても想像できない翻訳になっている。「うらぶれて」(5音節)も「 je m'en vais」(私は消える)と翻訳し直すことは不可能であろう。
構文の大胆な変更、主語の省略といった前回に見た特徴も、この訳詩を5音節のリズムに整えることにおおきく役だっている。
このような変訳の結果、上田敏の翻訳は第二節の一行目「鐘のおとに」以外はすべて5音節で構成されることになった。
しかし翻訳の至上命令ともいえる意味を犠牲にしてまで5音節を選んだ理由はなんだろうか。
第一に、5/5/5/音節というリズムが逐語的な直訳よりもはるかに詩に音楽性をあたえるということが考えられる。助詞「の」の反復や「ヴィオロン」という言葉の響きとあいまって、この詩の冒頭の音楽的な美しさは目を引くものがある。多くの人が最初の三行を覚えているのもそのためだろう。
またこの「の」の反復に柿本人麻呂の短歌「あしびきの やまどりの尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」(百人一首3番)を思い出す人は少なくないだろう。この訳詩がうみだすリズムは日本人には抵抗しがたい魅力があり、その音楽性は大和言葉が培ってきた伝統のなかで実現してるといえる。
そしてこのことは、ヴェルレーヌの詩の4/4/3音節という形式が、中世の吟遊詩人たちの記憶とともにノスタルジックな音楽性を帯びているということと関係がある。
つまり上田敏は、原詩の形式のもつ音楽性を翻訳するにあたって、4/4/3音節というリズムをそのまま日本語におきかえるのではなく、そのリズムがフランス文化の中でもつ意味を考慮に入れながら、それに相当する効果が得られるリズムを日本文化の枠の中で探したといえる。
しかしさらに興味深いのは、上田敏が音楽性のより高く伝統的な「七五調」を選ばずに、その構成要素の一つである5音節だけを使ったということだ。
5音節の連続では訳詩が単調になってしまう危険がある。事実この翻訳では、冒頭の見事なまでの音楽性にもかかわらず、第二節、第三節と進んでゆくにつれ、その音楽的な魅力が減ってゆくのは否めない。
ここで思い出して欲しいのが、ヴェルレーヌの原詩では3行をひとまとまりと考えるなら4/4/3音節というリズムはアレクサンドランのロマン主義的分割である4/4/4音節というリズムに「1音節」不足した形式であったということである。(「腑分け『海潮音』1-1」参照)。
上田敏の訳詩においてもじつは同じことがいえる。
3行をひとまとまりとみなすならば、この訳詩の5/5/5音節というリズムは和歌の5/7/7音節もしくは5/7/5音節というリズムに音節が2つもしくは4つ欠けた形なのだ。
さらには6行つまり1節単位で考えた場合、5/5/5/5/5/5=30音節という構成は、短歌の31音という定型(三十一文字/みそひともじ)に一音欠けた形でもあるのだ。
つまり原詩においても訳詩においてもこの詩の音楽性はある種の欠如感、規範からの不足感に特徴づけられているといえる。
ヴェルレーヌの詩を声に出して読むとき、3行目や6行目で期待された1音節が足りないという事実はこの詩のメランコリックな性格を決定づけている。宙吊りにされたリズムがうみだす効果は、言葉の意味がうみだす効果と密接に結びつき、詩の内的世界の形成において無視できえない一要素となっている。
上田敏はこの形式を訳するにあたって、七五調の伝統ではなく5音節の反復という単調な音楽性を選んだ。
形式そのものが内容にニュアンスと生命を吹き込むという点で、原文と翻訳は「規範から欠如した音楽性」という同じ方法に訴えているのだ。
上田敏の力量は原詩の形式を翻訳するにあたって、ただ単純に同じリズムをなぞるという愚行を許さなかった。4/4/3音節という形式を日本語に置き換えたところで、その形式の意味がフランス詩の伝統のなかで実現されている限りにおいて、そのような翻訳は表面的なものと言わざるをえない。
原詩のもつ言葉の力を、日本の文化と歴史のなかに組み替え直すこと。そのためには言葉の意味を歪めることさえ厭わないこと。それが上田敏のとった選択だった。
わたしはここで原詩のもつ形式の効果と翻訳のそれがまったく同じであるというのではない。歴史的文化的背景のことなる言語のあいだで、そのような置き換えが可能であるはずがない。
上田敏の翻訳が示しているのは、そのような等価的翻訳の重要性ではない。
むしろその不可能性の認識の上に成立する「越境的翻訳」の可能性である。
我々はしばしば翻訳とは言葉の意味を変えずに言葉を置き換えることであると考えがちである。
たとえば「rose」と「ばら」は同じ指示対象(意味)をもつゆえに置き換え可能であると。
しかしこのような認識は、言葉が単なる記号ではなくて過去の文化的記憶の集積であるということを忘れている。
言葉には歴史が刻まれているのであり、我々はその痕跡のなかに言葉の意味以上の意味を読みとるのだ。
「越境的翻訳」とはそのような言葉のもつ肉体性を翻訳することである。さまざまな声や時間や記憶に汚された肉体を翻訳することである。言葉とは純粋無垢な記号ではない。
そして文学とは言葉の肉体性がもっとも美しく花開く場所である。文学とは透明で絶対的な記号の集合ではなく、言葉が過去の言葉のうえに折り重なり、傷つけあい、手を取りながら、もう一度あたらしい肉体を得ようとする再生の試みである。
そのような言葉の肉体性を翻訳するためには、「rose」を「ばら」と訳してはならないこともあるのだ。上田敏が「sanglots」を「すすり泣き」と訳さなかったように。
ヴェルレーヌの「Chanson d'automne」においては、言葉の肉体性は言葉そのもののみならず、その形式とも結びついていた。中世以来の韻文詩のもつ形式の歴史に結びついていた。
上田敏が言葉の意味よりも形式を優先したのは、この詩のそのような特徴を鋭敏に嗅ぎとってのことであろう。
しかし、「越境的翻訳」はこのような言葉の肉体性の翻訳を目指すと同時に、けっしてこの「肉体」が無傷のまま越境できないことを深く自覚している。翻訳の意味や効果が原文のそれと完全に一致することはありえない。
それゆえに翻訳者は言葉という「肉体」の「不法越境案内人」(passeur)となる。
その越境の旅はパスポートを持たない非合法な旅である。旅人は身元の同一性を保証するパスポートを持たない。「不法越境案内人」に導かれて異国に侵入するいなや、彼は違う「identié」(身分)を獲得する。その越境行為は国境を無効にしてしまうのではなく、むしろその存在を思い知らしめる。「Chanson d'automne」は「落葉」へと変容し、見知らぬ肉体が異国で花開く。
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「落葉」は原詩の言葉の意味の忠実な翻訳ではなかった。原詩のもつリズムも異なった形で、つまり日本文化の枠の中で構成し直されていた。
我々はこの二つの詩がそれぞれの文化の中で同じ効果をあげているのか言うことは出来ない。
ただひとつ言えるのは、ヴェルレーヌの詩がフランスの詩壇にあらたな一ページを添えたがごとく、上田敏の翻訳も日本の詩壇がまだ知らぬ肉体を誕生させたということである。
ここにおいて翻訳の役割は他国の作品の伝達から自国の文化の刷新へと飛躍する。
もはや翻訳は口実にすぎないのかもしれない。
N.B. 次回はようやく最終回です。
「落葉」を他の翻訳(堀口大學、金子光晴)と較べながら、上田敏の訳詩に批判的検討を加えていきたいと思います。(写真は上田敏の筆跡)
N.B. この記事は、『腑分け『海潮音』1-2 ヴェルレーヌ/上田敏 「落葉」』の続きです。
上田敏の「落葉」はヴェルレーヌの原文に対して忠実な訳とは言いがたい。それは文全体の意味を伝えるために文の構造を犠牲にする「意訳」ともほど遠いものである。
上田敏があのような翻訳をした理由は別のところに求められなければならない。
考えうる唯一の理由は、訳文のなかに特定のリズムを持ち込むことである。
そしてそのリズムとは、和歌のリズムの最小単位の一つである「5音節」なのだ。
「高踏派の壮麗体を訳すに当りて、
多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、
象徴派の幽婉体を翻するに多少の変格を敢てしたるは、
その各の原調に適合せしめむが為なり。」
多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、
象徴派の幽婉体を翻するに多少の変格を敢てしたるは、
その各の原調に適合せしめむが為なり。」
上田敏『海潮音』序
上田敏は訳詩のなかに五音節のリズムを保つためには語義の多少の改変も厭わなかった。
たとえば「Les sanglots longs」(長いすすり泣き)を「ためいき」とニュアンスを変えて訳してしまったのは、意味よりもリズムを優先した結果である。直訳ではどうしても5音節に収まりきらない。
「l'automne」(秋)を「秋の日」(5音節)としたのも同断である。
「D'une langueur Monotone」(単調な物憂さ)にいたっては「ひたぶるに」(5音節)という、訳語からは原文がとても想像できない翻訳になっている。「うらぶれて」(5音節)も「 je m'en vais」(私は消える)と翻訳し直すことは不可能であろう。
構文の大胆な変更、主語の省略といった前回に見た特徴も、この訳詩を5音節のリズムに整えることにおおきく役だっている。
このような変訳の結果、上田敏の翻訳は第二節の一行目「鐘のおとに」以外はすべて5音節で構成されることになった。
しかし翻訳の至上命令ともいえる意味を犠牲にしてまで5音節を選んだ理由はなんだろうか。
第一に、5/5/5/音節というリズムが逐語的な直訳よりもはるかに詩に音楽性をあたえるということが考えられる。助詞「の」の反復や「ヴィオロン」という言葉の響きとあいまって、この詩の冒頭の音楽的な美しさは目を引くものがある。多くの人が最初の三行を覚えているのもそのためだろう。
またこの「の」の反復に柿本人麻呂の短歌「あしびきの やまどりの尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」(百人一首3番)を思い出す人は少なくないだろう。この訳詩がうみだすリズムは日本人には抵抗しがたい魅力があり、その音楽性は大和言葉が培ってきた伝統のなかで実現してるといえる。
そしてこのことは、ヴェルレーヌの詩の4/4/3音節という形式が、中世の吟遊詩人たちの記憶とともにノスタルジックな音楽性を帯びているということと関係がある。
つまり上田敏は、原詩の形式のもつ音楽性を翻訳するにあたって、4/4/3音節というリズムをそのまま日本語におきかえるのではなく、そのリズムがフランス文化の中でもつ意味を考慮に入れながら、それに相当する効果が得られるリズムを日本文化の枠の中で探したといえる。
しかしさらに興味深いのは、上田敏が音楽性のより高く伝統的な「七五調」を選ばずに、その構成要素の一つである5音節だけを使ったということだ。
5音節の連続では訳詩が単調になってしまう危険がある。事実この翻訳では、冒頭の見事なまでの音楽性にもかかわらず、第二節、第三節と進んでゆくにつれ、その音楽的な魅力が減ってゆくのは否めない。
ここで思い出して欲しいのが、ヴェルレーヌの原詩では3行をひとまとまりと考えるなら4/4/3音節というリズムはアレクサンドランのロマン主義的分割である4/4/4音節というリズムに「1音節」不足した形式であったということである。(「腑分け『海潮音』1-1」参照)。
上田敏の訳詩においてもじつは同じことがいえる。
3行をひとまとまりとみなすならば、この訳詩の5/5/5音節というリズムは和歌の5/7/7音節もしくは5/7/5音節というリズムに音節が2つもしくは4つ欠けた形なのだ。
さらには6行つまり1節単位で考えた場合、5/5/5/5/5/5=30音節という構成は、短歌の31音という定型(三十一文字/みそひともじ)に一音欠けた形でもあるのだ。
つまり原詩においても訳詩においてもこの詩の音楽性はある種の欠如感、規範からの不足感に特徴づけられているといえる。
ヴェルレーヌの詩を声に出して読むとき、3行目や6行目で期待された1音節が足りないという事実はこの詩のメランコリックな性格を決定づけている。宙吊りにされたリズムがうみだす効果は、言葉の意味がうみだす効果と密接に結びつき、詩の内的世界の形成において無視できえない一要素となっている。
上田敏はこの形式を訳するにあたって、七五調の伝統ではなく5音節の反復という単調な音楽性を選んだ。
形式そのものが内容にニュアンスと生命を吹き込むという点で、原文と翻訳は「規範から欠如した音楽性」という同じ方法に訴えているのだ。
上田敏の力量は原詩の形式を翻訳するにあたって、ただ単純に同じリズムをなぞるという愚行を許さなかった。4/4/3音節という形式を日本語に置き換えたところで、その形式の意味がフランス詩の伝統のなかで実現されている限りにおいて、そのような翻訳は表面的なものと言わざるをえない。
原詩のもつ言葉の力を、日本の文化と歴史のなかに組み替え直すこと。そのためには言葉の意味を歪めることさえ厭わないこと。それが上田敏のとった選択だった。
わたしはここで原詩のもつ形式の効果と翻訳のそれがまったく同じであるというのではない。歴史的文化的背景のことなる言語のあいだで、そのような置き換えが可能であるはずがない。
上田敏の翻訳が示しているのは、そのような等価的翻訳の重要性ではない。
むしろその不可能性の認識の上に成立する「越境的翻訳」の可能性である。
我々はしばしば翻訳とは言葉の意味を変えずに言葉を置き換えることであると考えがちである。
たとえば「rose」と「ばら」は同じ指示対象(意味)をもつゆえに置き換え可能であると。
しかしこのような認識は、言葉が単なる記号ではなくて過去の文化的記憶の集積であるということを忘れている。
言葉には歴史が刻まれているのであり、我々はその痕跡のなかに言葉の意味以上の意味を読みとるのだ。
「越境的翻訳」とはそのような言葉のもつ肉体性を翻訳することである。さまざまな声や時間や記憶に汚された肉体を翻訳することである。言葉とは純粋無垢な記号ではない。
そして文学とは言葉の肉体性がもっとも美しく花開く場所である。文学とは透明で絶対的な記号の集合ではなく、言葉が過去の言葉のうえに折り重なり、傷つけあい、手を取りながら、もう一度あたらしい肉体を得ようとする再生の試みである。
そのような言葉の肉体性を翻訳するためには、「rose」を「ばら」と訳してはならないこともあるのだ。上田敏が「sanglots」を「すすり泣き」と訳さなかったように。
ヴェルレーヌの「Chanson d'automne」においては、言葉の肉体性は言葉そのもののみならず、その形式とも結びついていた。中世以来の韻文詩のもつ形式の歴史に結びついていた。
上田敏が言葉の意味よりも形式を優先したのは、この詩のそのような特徴を鋭敏に嗅ぎとってのことであろう。
しかし、「越境的翻訳」はこのような言葉の肉体性の翻訳を目指すと同時に、けっしてこの「肉体」が無傷のまま越境できないことを深く自覚している。翻訳の意味や効果が原文のそれと完全に一致することはありえない。
それゆえに翻訳者は言葉という「肉体」の「不法越境案内人」(passeur)となる。
その越境の旅はパスポートを持たない非合法な旅である。旅人は身元の同一性を保証するパスポートを持たない。「不法越境案内人」に導かれて異国に侵入するいなや、彼は違う「identié」(身分)を獲得する。その越境行為は国境を無効にしてしまうのではなく、むしろその存在を思い知らしめる。「Chanson d'automne」は「落葉」へと変容し、見知らぬ肉体が異国で花開く。
「落葉」は原詩の言葉の意味の忠実な翻訳ではなかった。原詩のもつリズムも異なった形で、つまり日本文化の枠の中で構成し直されていた。
我々はこの二つの詩がそれぞれの文化の中で同じ効果をあげているのか言うことは出来ない。
ただひとつ言えるのは、ヴェルレーヌの詩がフランスの詩壇にあらたな一ページを添えたがごとく、上田敏の翻訳も日本の詩壇がまだ知らぬ肉体を誕生させたということである。
ここにおいて翻訳の役割は他国の作品の伝達から自国の文化の刷新へと飛躍する。
もはや翻訳は口実にすぎないのかもしれない。
N.B. 次回はようやく最終回です。
「落葉」を他の翻訳(堀口大學、金子光晴)と較べながら、上田敏の訳詩に批判的検討を加えていきたいと思います。(写真は上田敏の筆跡)
by sigokoko
| 2006-01-05 00:27
| 腑分け『海潮音』